体の声
頭の声ばかりを優先させてしまい、心の声や体の声をしばらく無視し続けてしまっていました。ここのところ、仕事したり、勉強したりすると、どうも体の調子が悪いような気がしていました。息がしづらく、肩が凝り、膝の裏が固まってしまうような感じです。
久しぶりに、体の声に耳を傾けてみますと、体が頑張っているふりをさせられていたと聞こえてきました。私には、子供の頃から、頑張る=精一杯やる(力を入れる)と思い込んでしまうところがあります。そんな頭の思い込みに従って、体が頑張っているふりをすることで、「こんなに頑張っているんだ」と頭に理解して欲しかった。そんな気がします。
体には、「頑張ってくれたね。ありがとう。」と伝えました。自分の体に言葉をかけることを不思議に思われる方もいるかもしれませんが、私としては魂と体は別の物という考え方で生きているので、不思議には思いません。そして、魂と体を繋げるのも、引き離すのも頭の役割。そんな捉え方をしております。
誰かに頑張っていることを認めてほしい自分。1番近くにいる私が、認めていこう。「大丈夫。私の頑張りは、私が1番知っているもの。」
感謝するとは
私自身、感謝することの大切さは理解しているつもりでも、ついつい忘れてしまいがちです。やってもらって当たり前や、自分だからできたと傲慢な考えをもってしまいます。
改めて感謝するとは、どういうことかを考えますと、「つながりを感じ、お陰様でと考え、ありがたいと思うこと」かなと思います。今使っているパソコンだって、自分が稼いだから買えた。だから、すごいのは自分と思うのではなく、作った人のおかげで使えているのだと考える。もう少し遡って考えますと、パソコンを発明した人のおかげでもあります。パソコンが使えるのは、これまでの人類が積み重ねてきたおかげであり、地球や宇宙のありとあらゆるものが人類に恵みをくれたおかげでもあります。
そう考えると、「自分がすごい」なんて考えることはなく、「つながりを感じ、お陰様でと考え、ありがたいと思うこと」ができるのではないでしょうか。
感謝して生きる、そんな人生にしていきたいなと思います。
「火花」 挑戦する人こそ、自分の人生を得られる
必要がないことを長い時間かけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。
「火花」又吉直樹著
売れない芸人の恐怖がどれほどのものか、簡単には想像できません。
周りの人からは、「いつまでやってるの。」「早めに辞めた方が取り返しがつく。」など、一般的に正しいと思われる言葉を投げつけられることでしょう。
こういった言葉を聞くたびに、売れないことへの焦りが募り、不安になるはずです。
挑戦している人というのは、周りから理解を得られている内はいいでしょうが、反対意見が多くなるにつれて、孤独感が強くなるものです。
それでも成功すれば、「辛い時もあったけど、続けてよかったね。」などと言われるでしょうが、成功するとは限りません。
認められるのは、成功した人に限る場合が多いので、認められないままの人は多いでしょう。
挑戦する人は、「無謀な挑戦かもしれない」ということを自分が一番分かっているはずだと思います。
それでも、自分を信じて挑戦を続ける。私は、その過程に美しさを感じます。
こういった生き方は、夢を諦め「無駄なことを排除して、危険を回避する」という生き方より、遥かに良い生き方のように思います。
もちろん生き方に良いも悪いもないかもしれませんし、私が「この生き方がいい」などと考えるのは、極めて不遜であるようにも感じますが。
私は教員を続けていて、自分に力がないと感じることが多いです。
働いていると、忙しさのあまり自分を見失ってしまうことも多いし、理想とする教育とは程遠い仕事をしている自分に腹が立ってきます。
子供にそんな教育をしていて、申し訳なく思うことも少なくありません。
その度に、「辞めてしまって、他のことをしてもいいんんじゃないの。」と心の中で囁く声が聞こえてきます。
売れない芸人と同じではないとは思いますが、挑戦する人の端くれとして、「火花」に出てくる主人公の気持ちに共感できる部分が多かったです。
だからこそ、周りの人から「そんなに無理しないで、他の仕事もあるんだから。」と言われたり、心の中で「辞めてもいいんじゃない。」と囁く声が聞こえたりしても、教育者として挑戦することを続けていきたと思います。
辛いことも、上手くいかないことも多いですが、一度しかない人生、自分を信じて、進みたい道の中で挑戦を続けていきたいです。
そしてその結果、上手くいかなかったとしても、「火花」の一文にあるように、「自分の人生を得る」ことができれば、それは美しい生き方であるように思います。
抽象的な話を面白く、分かりやすくする
初めに
話がぼやけている人ってどんな人だと思いますか。
いくつか特徴はあると思いますが、僕はやたらと抽象的なことばかり話す人だと思います。
抽象的な話は、中身がありません。
抽象的な話は、誰かの請負だけで話すことができます。
抽象的な話は、人から聞いたり、本を読んだりして知ったことを自分の知識かのように話すという事です。
中身がないわけですから、理想論に聞こえるかもしれません。
抽象的なだけの話し方を抜け出すためには
人から聞いたり、本を読んだりして知ったことは、自分の経験と繋げて初めて、抽象的な枠組から抜け出した話になると考えます。
つまり、「それってどういうこと。」とツッコミを入れたときに、「それはね、〜。」と話せるかということです。
抽象的なことは、説明に終始しがちです。
一般論で終わってしまいます。
だから、誰でも話すことができてしまいます。
抽象的な話に加えて、「それはね、〜。」と話せるときに、その話はぼやけていないはっきりとした内容になってくるのです。
抽象的な概念を自分の経験と結び付けるためには
では、自分の経験と結び付けるためにはどうすればいいのでしょうか。
方法としては、経験したことをその都度分類し、抽象的な概念へと移していくことが考えられます。
経験しただけでは、その経験は具体の一つの域を出ることがありません。
分類されないままのその一つの経験は、その人にとっての意味合いが薄くなってしまいます。
事象としては、確かに経験したはずにも関わらず、すぐに忘れてしまいます。
これだともったいない気がするのです。
もっと、経験したことに意味をもたせることができます。
まあ、こんなことばかりしていると疲れそうではありますが。
しかし、話が面白く、その人なりのオリジナリティがある人って、経験したことを分類し、抽象的な概念へと繋げている人が多い気がします。
このような人は、抽象的な概念と具体的な事象を行き来できるから、話の内容がはっきりしています。
学ぶということ
学ぶ方法で、頭に思い浮かぶのはどんな方法がありますか。
学校に行く、本を読む、話を聞くなどでしょうか。
しかしこれだけでなく、街を歩いても学びはあるし、ドラマを見ていても、音楽を聴いていても学びはあるという人がたまにいます。
このことの言っている意味は分かります。
あらゆることから、学ぶ要素があるということ。
自分の意識次第で学びの場は広がっているということです。
しかし、このことを実感として捉えることが僕はなかなかできませんでした。
今回、抽象的な話に自分の経験を繋げることを考えてみて、身の回りのあらゆることから学んでいる人は、経験を分類し、抽象化することが上手いのではないかと思いました。
それぞれの事象に意味を持たせる事ができるから、同じ経験をしたとしても人によって残り方が変わってくるのです。
例えば、料理。
料理をするときに、干した椎茸を水で戻すといい味が出ます。
このことをもう少しじっくり考えたいと思います。
干した椎茸は、一度乾燥させ、それを水で戻したもの。
ここから、一度寝かせることで、時間をかけていることが分かります。
時間をかけることで、すぐに椎茸を使うよりも旨みが増します。
このことを分類し抽象的な概念としてまとめると、考え事も、あえて一度寝かせることで、より深まるというところまで持っていく事ができます。
このように、干した椎茸を料理するという具体的な事象を、分類し、抽象化することで、その事象がもつ意味合いを大きくすることができます。
語り手のオリジナリティ
上では、「考え事も、あえて一度寝かせることで、より深まる」という抽象的な話の具体例として干した椎茸のことを書きました。
このように、自分の経験から引き出した具体的な事象にこそ、その人らしさが出てくるのです。
「考え事も、あえて一度寝かせることで、より深まる」という話は、多くの人ができます。しかし、そこから干した椎茸の話をする人は、あまりいないはずです。
話が分かりやすい人
話の分かりやすい人は、抽象的な話に加えて、相手に合わせて具体的な事象を話す事ができる人です。
これは、かなり、難しい事だと思います。
まず、相手に合わせて話せるだけの具体的な事象を数多く持っている必要があります。
そして、相手の興味関心、どれだけ話題に対して知識があるか考えなければなりません。
話の分かりやすい人は、例外なく具体的な事象を数多く持っています。
まとめ
「何言っているか分からない。」と言われるよりも、「面白い。分かりやすい。」と言われたいですよね。
そんなときは、自分の経験を分類し、抽象化してみてください。
そうすることで、話せる具体的な事象の数が増えて、話に「あなたらしさ」が加わります。
相手に合わせて具体的な事象を選べるようになると、さらに分かりやすくなりますね。
思いやりって大切
飲食店や喫茶店へ行くと、たまに「この人の接客、気持ちいいな。」と感じることがありませんか。
今日スタバへ行ったのですが、「この人素敵だな。」って思える店員さんに出会いました。
豆乳ラテをマグカップで注文すると、
「マグカップって飲みやすくていいですよね。」と話かけてくる店員さん。
よく聞いていると、
他のお客さんにも「私も良く飲みます。」などと一言添えて接客しているのです。
こういった行動は、別に作業効率が上がるわけではないし、いちいち一言話すために若干のロスがありそうなどと考えると、非効率とも言えるかもしれません。
人によっては、必要のないことだと思うかもしれません。
けれど、一言添えてくれる接客というのは、相手をいい気持ちにさせることができると感じます。
いい接客を受ければ、「もう一度来よう。」と思うお客さんも増えるはずです。
私も飲食店でアルバイトをしていた事があります。
そのとき、よくマネージャーがホスピタリティと言っていました。
そのマネージャーのことは好きではなかったのですが、その意味はよく分かります。
最近の自分を振り返ると、一つ一つの動作に思いやりを込めることができているだろうかと疑問を感じます。
ついつい、手を抜いて動いてしまうことが多いように感じます。
そんなときには、今日の店員さんのことを思い出します。
思いやりの気持ちをもって行動することができれば、もっと優しい世界になるのではないでしょうか。
知性と感性
思考してばかりいると、脳に偏りができるように思います。
意識しなくても、考えることが求められる世の中だから、感性を解放してあげる機会を作らないと、心が参ってしまいます。
美術館や博物館、映画館などへ行って芸術に触れると、感性が刺激されて、知性に偏っていた脳が揺り戻されるような気がします。
幼い頃は、美術館へ行ってどのように楽しむのかが分かりませんでした。
今もさほど分かっているつもりはないのですが、自分なりに楽しむことはできます。
ただぼーっと作品を眺めて、自分が何か感じるのを待つ。
感じたら、立ち止まり、再び眺める。
このように見ている、眺めているだけで、脳が落ちつてくるような気がするのです。
体調不良
完全に体調を崩しました。
もうベッドから起き上がる事ができず、丸2日寝続けました。
その間、一ヶ月分くらい考え事をしたんじゃないかってくらい考え事ばかりしていました。
けろど、頭に浮かんでくるのは、マイナスな考えばかり。
どうしようもなく、自分が嫌になり、ひどく落ち込みました。
体に不調があると、思考もマイナスになりますね。
こうして少し元気になると、どうしてあんなに悩んでいたんだろうと不思議に思うほどです。
ただ、今回考えたことが無駄だったというわけではなく、いくつか気づきがありました。
ありきたりではありますが、体調が悪いと普段できることができなくなるために、
当たり前の事ができる喜びは再認識しました。
それから、幸せって見つけにいくものでなく、気づくものなんだって事も改めて考えました。
幸せを見つけにいくスタンスだと、一つの幸せを見つけても、次の幸せ、次の幸せと、
際限なく探し回ってしまうものです。そうして、今というこの瞬間に幸せを感じられなくなってしまいます。
こう言った状態だと、気持ちは落ち着きにくくなります。
そうではなくて、今この瞬間がもう幸せなんだって思うところからスタートできると、
気持ちも落ち着いていていい状態で過ごすことができます。
他にも気づいたことはたくさんあるのですが、
疲れがまだ残っているため、ここまでにします。
無理せず切り上げるってことも、今回の体調不良で考えたことの一つです。
愛
愛されることは望んでいる人は多い。
しかし、愛することを望んでいる人は少ない。
愛されるということは受け身の行為であり、
愛するということは能動的な行為である。
愛されることは、自分でコントロールすることはできないが、
愛することは、コントロールすることができる。
生きるということは、愛するということであると思うし、
愛するということは、生きるということである。
愛するということは、なかなかできることではない。
自分の好きなものであっても、いつもいつも自分の思い描くような反応をしてくれるとは限らない。
それでも、愛することができるのか、ここを人生を通して学んでいるのだ。
この愛するということが、深くそして広くできる人ほど、人格が良いと言える。
愛するということは、恋愛だけのことを指しているのではない。
友達への、子供への、児童、生徒、お年寄りや、隣に住む人。
あるいは、犬や猫、花や虫。
机や椅子、ボールペンまでも。
愛を注ぐことはできる。
人や物のことを考え、具合はどうか感じ取りながら、丁寧に扱う。
この行為こそ、愛するということであり、生きるということなのだ。
愛することができたときの気持ちは、愛されたときの気持ちより、充実したものになるだろう。
裸の自分を曝け出せ
不器用な自分。
「不器用なところがあるから、なかなか上手くいかないんだよね。」と言いつつ、
心の中では、そんな自分を愛おしく思っていたりする。
長年付き合ってきた自分の性格。楽しい時も辛い時も、いつだって共に歩んできた。
だからこそ、不器用な自分を克服しようとはあえて思わない。
上手くいかない自分だからこそ、人の悲しさや痛みが分かる。
上手くいかない自分だからこそ、言葉に気を遣うことができる。
弱い部分を抱えながら生きていくってことは、人として弱いということではなく、むしろ、強いという事ななおかもしれない。
弱さは、強さ。この感じに辿り着くまで長く時間がかかった。
もちろん、不器用な自分に苛立つことはこれからもある。
だからといって、そんな自分を嫌いになるわけではない。
むしろ、そんなことを思い、乗り越えるたびに自分への親しみの気持ちが増していく。
自分に親しむなんて変な感じがするが、こう思うのだ。
自分は自分であって自分ではない。
少し上の方から、自分のことを俯瞰してみている感じだ。
「やりたいことをやるために、好きなものを好きだと言うために、僕らは生まれてきたんだ。」坂爪圭吾著からの引用
生きるのが下手とか、不器用だとか、悪く言われるけど「不器用に生きることで、純粋な部分を守り続けている」のだと思う。
純粋であることは、器用に生きることより、ずっと素晴らしいことだ。
だから、生きづらさを悩むことがあっても、大事なものを明け渡さないで、そのままで生きていてください。私はそう思う。
不器用な自分を格好つけずに曝け出し、包み隠さずに好きなものを好きだと伝えていきたい。
それぞれの好きを伝え合える関係こそ、深い関係なんだ。
格好つけて、本当の自分を隠して、好かれるくらいなら、
不器用な自分を曝け出し、嫌われてしまえ!!
コミュニケーション
スムーズな会話であったとしても、そこに深いコミュニケーションがあるとは限らない。
以下、「読書をする人だけがたどり着ける場所 齋藤孝著」からの引用。
「コミュニケーションにも浅い・深いがあります。表面的なやりとりに終始し、信頼感も生まれにくいのが浅いコミュニケーション。コンビニで飲み物を買ったときに、店員さんと目も合わさずに「お願いします」「ありがとうございました」と言葉を交わしているのだってコミュニケーションには違いありませんが、ものすごく浅いレベルのものです。そのコミュニケーションが記憶に残ることはないでしょう。」
「しかし、同じようなシーンでも深いコミュニケーションは可能です。私は、コンビニで外国人の店員さんと話をする間柄になって、彼が彼女と別れたということまで聞いていました。相手の状況を認識して、心のこもった言葉をかければ途端に深くなります。「深い部分に触れた」感覚はいいものです。短い会話でも、それが1日を気分よく過ごすきっかけになるかもしれません。」
筆者のように、コンビニの店員と深いコミュニケーションを取るということはなかなかできないように思うが、それぐらいの気持ちで人とコミュニケーション取るようにしていきたいと思う。
この場合は、コンビニの店員という、なかなか関わりの薄い人との関係を例に挙げているが、私たちは、コンビニの店員より関わりの濃い、職場の人、友達、家族、恋人とどれだけ深いコミュニケーションが取れているだろうか。
浅いコミュニケーションは、味のしない食べ物を食べているような気持ちになる。
コミュニケーションをとっているのだけれど、気持ちが通じていないから、コミュニケーションをとっているはずなのに、寂しい気持ちになる。
一方、相手の深い部分に触れるということは、とても心地よいと思う。
この心地よいという感覚は、言語を通したコミュニケーションに限らないのではないか。
例えば、スポーツをしているときに、チームメートと言葉を介さずにコミュニケーションを取り、パスを繋ぐ。
このとき、相手との間には、心地よい感覚が流れる。
だから、スポーツで深いコミュニケーションが取れる人は、スポーツであってもいいと思う。
せっかく人と関わるのであれば、深いところで繋がりたいと思う。
そのために、浅いコミュニケーションをコミュニケーションだとは捉えず、少しでも深いコミュニケーションができるようにしていきたい。
読書をして教養を広げ、コミュニケーションをするときには、積極的に自己開示をする。
相手の考えを言語的、非言語的な要素の両面から捉え、会話をする。
そして、深いコミュニケーションが取れる魅力的な人になりたい。
怒鳴り声で目を覚ます
8月1日、自分の怒鳴り声で目を覚ます。
この日、私は子供たちの夢を見た。
夏休みに入ってからも、子供たちの夢はよく見る。
大体がいい夢ってよりは、子供との関係が上手くいかなかったといった嫌な夢だ。
今日の夢も同じ。
私の指示を聞かずに、舐めた口調で反論してくる子供と向かい合っている場面だった。
ここら辺で目を半分覚ました。
けれど、まだ意識の半分は夢の中。
私は、ああこれは思いっきり叱ろうと思った。
大きく息を吸い込み、「ふざけた態度取ってるんじゃない。」と叱った。
あろうことが、その声は夢の中だけででなく、現実の世界でもこだました。
「今のは叱ったのか?ただ怒鳴っただけじゃないか。」
そんなことを思いながら、体を起こした。
それにしても、怒鳴って起きるというのはまずい。
ここまで思い悩んでいたのかと悲しくなる。
怒鳴られた後の子供の表情が頭にこびりついて離れない。
怒鳴って指導しても、変わらないなと痛感した朝だった。
朝から嫌な思いをした。
けれど、その夢は同時に自分の指導方法を見つめ直すチャンスになった。
これはどうにかしないとと、心の底から思った。
私は、そのとき「人を動かす D・カーネギー著」の本のことを思い出す。
昔付き合っていた彼女が、読んでいてお勧めしてきた場面が急に蘇ってきた。
大学は、心理学部に通っていたから、心理学を使って人の行動を促すという考え方には馴染みがあった。
大学生の頃は、勉強するたびに、「この考え方を使って人に関わってみよう。」とよく思ったものだ。
けれど、あるときふと、心理学を学んで人と関わると打算的に人と付き合っていくことになって、何だか嫌担った。
それ以来、心理学(学習心理学、社会心理学)を学ぶ機会を避けてきたように思う。
それよりも、人と寄り添っていくためには、認知心理学的、臨床心理学的な考え方を学ぶ方がいいのではないかと思い、学びの対象を移していった。
今日改めて、心理学を使って(認知心理学や臨床心理学以外の分野も含んで)いこうと思ったのは、
人との関わり方を学んだとしても、打算的に人と付き合っていくことには、必ずしもならないのではないかと思ったからである。
大きい声で、怒鳴るのではなく、
人の行動特性、感情の動きをよく理解して、教育をしていきたいと思った。
これから、「人を動かす D・カーネギー著」を読んでいく。
窮屈な世の中
「人に迷惑がかからないように」という言葉は、ときに呪いのように行動や言葉を締め付ける。
電車に乗って、周りを見渡す。目に入ってくるのは、眉間に皺を寄せ、疲れ切った表情でスマホを覗く人たち。
ガラスに映る自分も例外ではない。
一体私たちは何にそんなに疲れているのか。
多様化した現代社会は、多くの人が「自由」という旗をそれぞれに掲げ、自分の権利を主張している。
しかし、権利を主張する姿から、「自由」とは程遠い印象を受ける。
むしろ、自分のことを守ろうと必死で、そこに一人一人の「自由」はなく、息苦しさが伝わってくるのは、私だけだろか。
「人に迷惑がかからないように」という言葉を小さい頃から聞かされてきた私たち。
いつしか、その言葉が肥大化して、「自由」の範囲を狭めてしまったのではないか。
そもそも、「人に迷惑がかからないように」生きられるということは、人間が集団生活を送る上で不可能である。
人は、人に迷惑をかける生き物なのだ。
お互いの足りない部分を補い合うからこそ、集団として生活できてきた。
「お互い様」という言葉がある。この思いがあったからこそ、互いに優しくなれ、自分を守る必要がなかったのではないか。
今の社会では、「私は人に迷惑をかけないようにしているのだから、あなたたちも私に迷惑をかけないで。」と考えている人が少なくないように思う。
人に迷惑をかけない人などいないのに。
「人に迷惑をかけない」ではなく、「お互い様」と思って生きられたら、もっと優しい社会になるはずなのに。
夢が語れる世の中に
友達や仲間とどんな会話がしたいですか。私は、「今、こんなことに挑戦中なんだよね。」「~になりたいと思っているんだ。」こんな話ができたら良いなと思います。
子供の頃は、「将来の夢はプロ野球選手になること。」と決まり文句のように良く言っていました。けれど、将来の夢を語ることは次第に減っていき、友達との会話も不満や愚痴を言い合うことがだんだんと多くなっていた時期がありました。そんな時期は、仲が良い友達といるはずなのに、あまり楽しくないと感じていました。そう思っているのは、自分だけかなと友達の顔を覗いてみると、やはり心の底から楽しいわけではなさそうに感じられました。
私たちは、大人になる過程で、「程よく生きる術」や「大きな夢を諦めて、聞き分けの良い人を演じる方法」ばかり身に付けてしまっている気がします。夢を語れば「できるわけがない」と馬鹿にされ、挑戦していることを話せば「意識高い系」と冷やかされる。こんな言葉の背景にあるのは、現状を変えたくないという気持ちがあるためでしょう。人は、自分の慣れた状況の中に留まりたいという特性があります。ですから、現状を脅かすような人を排除したがるのかもしれません。
向上心。これも、人がもつ特性の一つです。赤ちゃんのとき、なかなか歩けないからと、諦めてしまう赤ちゃんはいません。人は、本来より良くなりたいという向上心をもっているのです。しかし、大人になる過程でどこかに向上心を置いてきてしまう。
変化したくないという気持ちを打ち破り成長していくためには、どこかで置いてきてしまった向上心を、もう一度取り戻す必要があります。そのために必要なのが、自分のことを受け入れてくれる周りの人たちなのではないかと思います。自分が夢を語ったとしても、応援してくれるそんな人たちが。もっと簡単に夢が語れる世の中になれば良いな。
「良いこと」に目を向ける
ついついこどもたちのできていないところに目がいってしまう。「育てたい」という思いが強いほど、できていないが目につきます。
できていないに目が向くと、こちらも疲れるし、言われるこどもも嫌になります。
だから、できているに目を向けていたいと思います。そのために、毎朝黒板にこどもたちの「良いところ」を書くようにしました。
朝きたこどもたちが自分たちの「良いところ」が見られるように黒板に、前日の良かったところを書いておくというのは耳にします。
しかし、それで嫌だなと思っていたのは、黒板に書くと1時間目には消えてしまうというところです。そこで、A3の紙に「良いところ」を書き、それを黒板に貼ることにしました。朝の会が終わる頃には、教室の横にある掲示板にA3の紙を貼ります。そうすることで、「良いところ」が残るので、こどもたちも今までのことが自由に見られるようになると思います。
朝来たときに、教師もこどもも「良いところ」に目が向くところからスタートできる!ここが良さだと思います。
想定外への対応力
教室では、いろいろなことが起きます。30人もこどもたちがいれば、何も起きない方がおかしいですよね。
ときには、「え、こんなことが起きるの?」と思うことも少なくありません。想定外のことが起きると、対応が遅れて、正しい判断で動くことが難しくなります。
では、想定外に対応していくためにはどうすればいいか。二つのことを考えます。一つ目は、一日の予定を入念にシミュレーションしておくことです。どこで問題が起きそうか、分かりづらいところはないか、動線は確保できているかなどを事前に確認しておくのです。ここでのシミュレーションを丁寧にやるほど、想定外のことが少なくなっていくでしょう。放課後、立てたシミュレーションに、甘いところはなかったか振り返ると、シミュレーションして想定外に対応する力がより高まると思います。
二つ目は、想定外が起きるということを想定しておくことです。こどもたちが多く集まれば、いろいろなことが起きると考えておくのです。そうすることで、何か起きたとしても慌てずにすむことができます。
想定外のことが起きたときにも、冷静に対応することで、こどもたちに安心感を与えられる教師になっていきたいと思います。